昭和50年01月28日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 信心はせんでも天地金乃神様の御恩恵の中にあるんだというわけですが。この信心を頂きませんと、この頂いておるおかげをおかげと分かりません。おかげをおかげと分かるところに、感謝の心も報謝の心も起こってくるのです。その感謝の心報謝の心、それがいよいよおかげをおかげにして行くのであります。信心はせんでもおかげはやってあるのですけれども、おかげをおかげと分かりません。信心を段々頂いてまいりますと、いわゆるおかげをおかげと実感することが出来ます。
 だからそういう生き方の信心でなからなければ、やはり御道の信心振りでは無いのです。信心は何十年頂いておりますけれども、ただお願いをして現れる奇跡とか、おかげとかという。いわゆるご利益だけが有難いと言う信心で終始した分では、一生ここんところは分からん。だから私共の信心の進め方というものが、頂いておるおかげ。それは信心はせぬでも下さってあるおかげ。
 そういうおかげをいよいよ、これは広い深い大きなものですから、その広い大きなおかげを、おかげと実感の出来るような信心でなからなければいけないのです。ただ、金光様の信心をさせて貰うて、お取次ぎを願っている。こんな不思議なおかげを頂いて有難いというおかげでは、それは信心はせぬでもおかげはやってあると言う様な。私は最後のところに、これは天地金乃神様が、天地金乃神という神様は、途中から出来た神ではない。昔からある神だと言う事を、まぁ宣言しておられる。
 だからそういう神様を、教祖金光大神のお取次ぎによって、私共は信心させて頂いておる。そういう信心をさせて頂くには、何というても、天地日月の心になることが肝要だというところまでで、良かろそうなものと私は、今まで思いよったんです。一番最後のところに、信心はせんでもおかげはやってあるなど付けなくても良かろうそうにあったんですけれども。今日の御理解を頂くとですね。
 信心はせんでもおかげはやってある、頂いておる、すでに頂いておるおかげをおかげと分からせて頂くという信心なんです、金光様の信心は。だからやはりこの一番最後のところが要るわけなんですね。なるほど天地ははやることもなからなければ、終わりも無い。けれども最近デマと言えばデマ、真実と言えば真実。まぁそれは分かりません。分かりませんけれども確かにこれは、私が神様から頂く事だけでも、言うなら寒天危地と仰る。本当に神様が、それこそ寒い思いをなさるほどしの。
 私は先日こうあの空を天井の何か、少しあいておるところから、こう覗かせて頂いたら、もうその空が見えて向こうに、こうやって人間が合掌しておる手を、そのいわば天竺に拝んだんです。天竺と言うたら可笑しい。天の一角に拝んだんです。ですからこらどうか、私今でもまだ分からんなおりますけれども。そしたらあの、熊本の阿蘇を中心にして地震が続いておる。あぁ言う事が起こったですから。ははぁこれは転変地変の意味だろうかとも、その後に思わせて頂いておったんですけれども。
 もうそれこそあの何か、神様がこう願っておられると言った様なものを、今日また改めて感ずるんですね。それはその神様が一番願っておられるのは、そのいわゆる人間神様の、それこそ御恩恵の中に生きとしいけるもの、ありとしあらゆるものが、御恩恵の中にあるわけですけれども、その中でも人間は万物の霊長というてと仰るように、人間その万物の霊長である人間を、こよなくいわば愛し賜うそのお心というものがですね。最近の人間の生き方というものは、それこそ神様がもう本当に寒心に絶えない。
 寒い思いをするようなものを、神様が感じておられるね。いうならばそれは危地である。いわゆる地上に危機が迫っておるんだとね。○○という予言者が、もう二十五年しかこの人間の住んでおる地球というものは、ないんだと。二十五年後にはもう破滅する。もう人地球そのものが破滅する時期がくるんだと言う事を、まぁ予言しておると言った様な事ですね。それは実際私共は分かりませんけれどもですね。私はこの御理解七節からでも、それをやっぱ、思わんわけにはいきません。
 なるほど天地ははやることもなければ終わることもないけれどもね。地球はと仰って無いと言う事。人間のおる地球は、終わりもなからなければ、始まりも無いという風に仰ってないね。まぁそれはそうと致しましてです。結局私共がおかげをおかげと分からせて、いうならば、そこにでないとね。そのおかげをおかげと分からないとですね。神恩報謝の心が湧いてまいりません。神恩に対し奉って報謝、報い奉るという心が生まれませんね。その一番最大なものが、私共は人類愛だと思いますね。
 本当に例えば寒天危地と言う様なお知らせを頂いて、これが本当の意味において、歓天喜地になったら、それは喜びの天が歓びね。地が喜ぶとかいてあるね。神様がいわば寒い思いをなさるほどしの、例えば地球上の現状と言うものをです、反対に神様がお喜びくださるね。人間が本当に真善美の世界に住みね。貧争病のない世界に住んで、この世を極楽と謳歌できるような、言うなら世界を神様が願ってござる。
 実を言うと人間私共も願っておるのですけれども、見当違い方角違いのことばかりをして、行き詰まりに行き詰っておるというのが、いわば現状だろう。そこでです私どもが気付かせて頂いた私共がですね。いうならば合楽示現活動と言う事が言われる。その神様と氏子とがです。本当に喜び合うていけれる世界があり、また道があるんだと。そこに私は人類愛と言う事ね。自分の周辺の全ての人が、そういう道を分かってもらったら、助かってもらったらと言う所にですね。
 それこそ正教君じゃないですけれども、命がけでそういうその事実をです、世界中の人達にも伝え、分って貰いたいという念願に燃えるところからですね。人類愛に燃えるところから、いわば神様のお喜びいただかれる世界が、そこから顕現されてくるわけですね。今日私、今朝方自分のお店でもあるようであり、他所の店でもあるようですけれども、蕎麦屋さんです、大きなお蕎麦屋さん。もういっぱいお客さんが入っとるんです。そこでもう大変美味しい蕎麦を頂いておるお夢を頂いた。
 はぁおかげはそばと仰るがね。もう今年はそういうおかげの頂けれる、いわばおかげがそばまで来ておるのだ。そこでその頂くそのおかげを、頂かせてもらえる姿勢を作れというのが、今年の信心であり、またそれがこの寒修行にも現れておるようにも思うのです。だから、おかげがそばだと言うような風に頂いておりましたけれども。今日この御理解七節を頂いてです。天地日月の心になること肝要だと、と言う様な事は、大体どう言う様な事だろうかと。
 例えば世の中には、思うようにならぬ事が、もう浮世だというふうに決めつけ込んでいる人もありますね。思うようにならんのが、もう浮世なのだとね。それを御道の信心によって、思い通りどころではない。それこそ夢にも思わなかったおかげの世界に住むことが出来れる道なのだと、金光様のご信心はね。だからいわば観点が大変違ってくる。それには、天地日月の心になることが肝要だと。そこで先ず手元足元のところからです。はぁ今日私は蕎麦屋に行っておったというのはね。
 そして美味しい思いをしておったというのは、もう一切の事が成就するおかげの基というのは、何時も自分の足下にあるんだ足元にあるんだ、そばにあるんだと言うふうに、今日は御理解七節を頂いて、改めて感じさせて頂いたんですね。例えば私が糖尿病と。腎臓が悪い。糖尿病を良くなそうと思うと、甘いものを食べてはいけない。腎臓を良くなそうと思うたら、塩気を取ってはいけない。もうそれこそ平清盛と重盛の話じゃないですけれどもね。親子の話じゃないですけれども、孝ならんと欲すれば忠ならず。
 忠ならんと欲すれば孝ならずと言った様な、いわば生き方をみんなが普通と思うておるのです。金光様のご信心はです、そうではなくて、もう自分を中心とするところの周囲のみんなが立ち行くおかげの頂けれる道なんです。例えば色んな意味で、三角関係と言った様な事がありますけれども。どれを無くして抹殺すると言う様な事じゃないです。その三角のものが、その三人三様それぞれに立ち行く道が開けていく生き方を、教祖は説いておられるのですね。それがいわゆる天地日月の心なのですね。
 随分いわば平重盛は、悩み迷うたことでしょうね。忠義を天皇陛下に仕えておるのですから。天皇陛下に仕えておる自分として、親の言う事を聞きゃ不忠になるね。というて親の言う事を聞かなければ不孝になる。もう進退ここにいわば、極まったというわけなんです。そう言う事のない、私は生き方が出来るのが御道の信心だと。そこでどう言う事かというと、そのいわゆる天地日月の心であってですね。私がほんならはぁこらもう糖尿病に甘いものはいけんからというて、甘いものを食べない。
 腎臓に辛いものはいけないというから、辛いものを食べない、と言うのではなくてもう、自分のそばにあるものね。言うなら食膳に上ってくるもの。それを神ながらとして頂いていく。いうならば、自然と仲ようして行く信心というのが、天地日月の心なのですね。はぁこら甘いものが出てきて糖尿病にはいかん。辛いものが出てきたからというと、それこそ腎臓を良くなそうと思うとると、糖尿病が悪うなる。糖尿病を良くなそうと思うとると、腎臓が悪くなるという結果になるのですね。
 どうしてよいじゃら分からんという世界ではなくて、それこそ神ながらに、一切を合掌して受けて行こうというのです。向こうにあるものを頂くのではない。自分の足下にあるもの。自分の一番そばにあるものを美味しく頂いたら良いのですね。そこから開けるのが、いうならば、みんなが立ち行く道なんです。私は今日そのおそばを頂いておるお夢から、そういうものを感じさせて頂きました。ですから問題は、自分の一番手前にあるところの問題そのものをです。
 もう実意丁寧神信心によって、それを大事にして行くと言う事なんです。そういう生き方を、先ず身に付けることですね。そこから私がいよいよ、信心はせんでもおかげはやってあると言う様なおかげも分かって来る様になり。天地日月の心というものがです。言うなら、身に付いて来る所のおかげにもなってくるのです。先日こう言う事を頂いておった。それもまぁ分からんですけれども、永久性永久性があるというですね。永久と。それから末広性末広がり。それから審美性審美というのは、あの審美か。
 私はこら意味が分からんから、正教君に字引を引いて見てくれというて字引をを引いたら、審美とは、あの美しいと醜いものを識別すると言う事だそうですね。何というですかね。段々お互いの教養が高まってまいりますと、色んなもののこの審美眼というものが開けてくる。いうなら良いもの良いものとはっきり分かる。何とはなしに分からんけれどもです、分かってくる。良いものは良いものとして分かってくるのです。
 これは例えば、私共が昔からその、骨董もんが好きでしたからね。そのそれにまめっとりますとですね。偽物とか本当なものとか。本当に良いものとか良くないものとかというものは、その何日間か通うていっておるとですね、良いものは良いものと、かつがつ分かってくるです。不思議です。だから一目惚れで絶対、あんなものは買うなと、昔から言われているのです。だから骨董屋、こら良いなと思ったら、一週間ぐらい通うてみるんです。そすと段々良いものは毎、度々良くなっていく。
 ところがね良くないものはね。はぁ始めは良いと思ったが、段々飽いてくるです。こら不思議ですね。例えば美の追求をすると言う事ですね。それが段々その識別が出来るようになってくる。私は御道の信心はね、そういう永久性のあるもの。又は末広いわゆる、親の代よりも子の代と、広がっていくような信心。しかもその教養というものがです、審美性に富んでくると言う事です。本当な事本当でないものの識別が、段々はっきり出来てくると言う事です。
 備わってくるという、そういう私は信心を、身に付けていくおかげでなからなければならない。それにはお願いをして、おかげを受けた、そのおかげしか分からんおかげでは、一生信心しておっても、大したことはないね。いうならば今まで気が付かなかった、信心はせんでもおかげはやってあるというおかげが、いよいよ広う深う分かってくると言う様な信心ね。それには私共がですね。もうこの世というものは、思うようにならんのが浮世だというふうに相場を決めてしまってはならない。
 それこそ夢にも思わないようなおかげの頂けれのが、御道の信心だと。いうなら金光様の信心を頂いておれば、誰でもそういうおかげが受けられるかというと、そうではなくて、天地日月の心になること肝要だと仰せられる、その天地日月の心に、いよいよ限りなく、改まりに改まって美しゅうなりね。いよいよ改まりに改まって、大きな豊かな心をいうならば、頂かせてもらえれる稽古。しかもその上天地日月の心になること肝要だと。いわゆる、実意丁寧神信心です。
 昨日遅うあのもうあれは、連続テレビ小説でしょうけれども、おからの花かなんかというのがあっとります。なかなかあの、中村玉緒主演のが、四国から東京でしょうかね。それを良くは知りませんけれども。あの家出して出てきておる。そしてその豆腐屋の女中さんになってるんです。その豆腐屋というのがもう大変な変人で、もういうならば東京一番の有名な、美味しい豆腐として有名なんです。だから実に変人なんです。もう朝ともなると、ずうっと路地に、そのお豆腐買いが並ぶと言うのです。
 その例えばあの豆腐に、例えばけちでもつけたら、その場でひっくり返してから、お前にゃ売らんと言う様な、まぁ変人の豆腐屋の場面でした。それでその玉緒がその前の晩に寝ていない。朝早くから起きてそれで、あんまり早く起きとるから、どうしてかと聞くと。夕べは寝なしじゃったと言う。ほんなら一時間ばっかりでも良いから寝れとこう言う。いいえもう寝ないで、このままでよいですと言うたら、大変怒るところがあります。俺んところの豆腐を造ると言う事はね。
 一番素晴らしいコンディション。一番からだの調子の良か時作らなければ、良い豆腐は出来ないち言うのです。私はもう私が言う様な事を言うなと思いました。なるほど名人変人と言われるだけあってです。そのくらいに豆腐造りに熱中しているわけなんです。私が、信心をさせていただくのにね。はぁ夜更かしはする眠うして応えん。そして朝の御祈念では、ぐうぐう寝ておると言った様な事で、本当の信心が頂けるはずはない。いうならば、朝の御祈念なら朝の御祈念、私が言うようにね。
 朝の一時間は例えば、午後なら午後の三時間にも四時間にも匹敵する程素晴らしいひと時だと。だからこの朝のいうなら、このひと時を先ず大事にしなければいけない。そのためには、例えば私で言うならば、朝の三時半から、四時の御祈念をさせて頂くという、その間が一番、有難い時間でなからなければならんためにです。言うなら身体も心も一番素晴らしいコンディションを頂けれるような工夫を、もう前もってしておかなければならないと言うのですね。
 それを最近では、私は実意丁寧神信心だとね。前の晩から心掛けるという、その事が心行だとすら、最近はいっておるようなものなんです。そういう一つの、いわば打ち込む焦点を置いてです。そう言う所に。いよいよ天地日月の心が肝要だと言う様な生き方になってくるところからですね。それこそ夢にも思わなかったおかげの展開ともなり。同時にですいうならばね。みんなが立ち行くところの道が開かれてくる。それには私は先ず一番手前にあるところのもの。
 自分の一番そばにあるものを、美味しく有難く頂けれる。私は今朝そばを頂いておるお夢を頂いて、そこにヒントを頂いたんです。一番そばのもの一番手前のもの。それを向こうの事を願ったり、その事に例えば飛び越えて行く様な事をせずに、一番手前の事からね。いうならば幸福というものは、ほんの自分の一番近い身近な所にあると言われる様にですね。一番身近な事を例えば苦い事であろうが、甘い事であろうがです。
 それを苦いものを頂かせて頂いて、おかげで胃が健全になりますと言った様な頂き方なんです。臭いものを頂いて、おかげで身体が健全になります。まるきりニンニクのようなものだというような頂き方をする事なんですね。そういう答えを出しながら、私はいくことを、天地日月の心だという風に思います。そういうおかげの進め方、信心の進め方を、先ず一番自分の手前のところから、それを稽古して行く。それを有難いものにして行くと言う所から、始らなければならないと言う事であります。
   どうぞ。